国府尼御前御書

国府尼御前御書      /建治元年 五十四歳御作

  阿仏御房の尼ごぜんよりぜに三百文、同心なれば此の文を二人して人によませてきこしめせ。

 単衣一領佐渡の国より甲斐の国波木井の郷の内の深山まで送り給候い了んぬ、法華経第四法師品に云く「人有

つて仏道を求めて一劫の中に於て合掌して我が前に在つて無数の偈を以て讃めん、是の讃仏に由るが故に無量の

功徳を得ん、持経者を歎美せんは其の福復た彼に過ぎん」等云云、文の心は釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫

が間ねんごろに供養し奉るよりも末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候、まこ

としからぬ事にては候へども仏の金言にて候へば疑うべきにあらず、其の上妙楽大師と申す人此の経文を重ねて

やわらげて云く「若し毀謗せん者は頭七分に破れ若し供養せん者は福十号に過ぎん」等云云、釈の心は末代の法

華経の行者を供養するは十号を具足しまします如来を供養したてまつるにも其の功徳すぎたり、又濁世に法華経

の行者あらんを留難をなさん人は頭七分にわるべしと云云。

 夫れ日蓮は日本第一のゑせものなり、其の故は天神七代はさておきぬ、地神五代も又はかりがたし、人王始ま

りて神武より今に至るまで九十代欽明天王より七百余年が間世間につけ仏法によりても日蓮ほどあまねく人にあ

だまれたるものは候はじ、守屋が寺塔をやき清盛入道が東大寺興福寺を失せし彼等が一類は彼がにくまず、将門

貞たうが朝敵と成りし伝教大師の七寺にあだまれし彼等もいまだ日本一州の比丘比丘尼優婆塞優婆夷の四衆には

にくまれず、日蓮は父母兄弟師匠同法上一人下万民一人ももれず父母のかたきのごとく謀反強盗にもすぐれて人

ごとにあだをなすなり、されば或時は数百人にのられ或時は数千人に取りこめられて刀杖の大難にあう、所をを

はれ国を出さる結句は国主より御勘気二度一度は伊豆の国今度は佐渡の嶋なり、

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されば身命をつぐべきかつてもなし形体を隠すべき藤の衣ももたず、北海の嶋にはなたれしかば彼の国の道俗は

相州の男女よりもあだをなしき、野中に捨てられて雪にはだへをまじえくさをつみて命をささえたりき、彼の蘇

夫が胡国に十九年雪を食うて世をわたりし、李呂が北海に六ヶ年がんくつにせめられし我は身にてしられぬ、こ

れはひとえに我が身には失なし日本国をたすけんとをもひしゆへなり。

 しかるに尼ごぜん並びに入道殿は彼の国に有る時は人めををそれて夜中に食ををくり、或る時は国のせめをも

はばからず身にもかわらんとせし人人なり、さればつらかりし国なれどもそりたるかみをうしろへひかれすすむ

あしもかへりしぞかし、いかなる過去のえんにてやありけんとおぼつかなかりしに又いつしかこれまでさしも大

事なるわが夫を御つかいにてつかはされて候、ゆめかまぼろしか尼ごぜんの御すがたをばみまいらせ候はねども

心をばこれにとどめをぼへ候へ、日蓮をこいしくをはしせば常に出ずる日ゆうべにいづる月ををがませ給え、い

つとなく日月にかげをうかぶる身なり、又後生には霊山浄土にまいりあひまひらせん、南無妙法蓮華経。

=六月十六日               日蓮花押

%さどの国のこうの尼御前

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