中興入道消息

中興入道消息        /弘安二年十一月三十日 五十八歳御作

                        +与中興入道女房

 鵞目一貫文送り給い候い了んぬ妙法蓮華経の御宝前に申し上げ候い了んぬ、抑日本国と申す国は須弥山よりは

南一閻浮提の内縦広七千由旬なり、其の内に八万四千の国あり、所謂五天竺十六の大国五百の中国十千の小国無

量の粟散国微塵の島島あり、此等の国国は皆大海の中にありたとへば池にこのはのちれるが如し、此の日本国は

大海の中の小島なりしほみてば見へずひればすこしみゆるかの程にて候いしを神のつき出させ給いて後人王のは

じめ神武天皇と申せし大王をはしましき、それよりこのかた三十余代は仏と経と僧とはましまさずただ人と神と

ばかりなり、仏法をはしまさねば地獄もしらず、浄土もねがはず、父母兄弟のわかれありしかどもいかんがなる

らん、ただ露のきゆるやうに日月のかくれさせ給うやうにうちをもいてありけるが然るに人王第三十代欽明天皇

と申す大王の御宇に此の国より戌亥の角に当りて百済国と申す国あり、彼の国よりせいめい王と申せし王金銅の

釈迦仏と此の仏の説かせ給へる一切経と申すふみと此をよむ僧をわたしてありしかば仏と申す物もいきたる物に

もあらず、経と申す物も外典の文にもにず、僧と申す物も物はいへども道理もきこへず形も男女にもにざりしか

ばかたがたあやしみをどろきて左右の大臣大王の御前にしてとかう僉議ありしかども多分はもちうまじきにてあ

りしかば、仏はすてられ僧はいましめられて候いしほどに用明天皇の御子聖徳太子と申せし人びだつの二年二月

十五日東に向いて南無釈迦牟尼仏と唱えて御舎利を御手より出し給いて同六年に法華経を読誦し給ふ、それより

このかた七百余年王は六十余代に及ぶまでやうやく仏法ひろまり候いて日本六十六箇国二つの島にいたらぬ国も

なし、国国郡郡郷郷里里村村に堂塔と申し寺寺と申し仏法の住所すでに十七万一千三十七所なり、日月の如くあ

きらかなる智者代代に仏法をひろめ衆星のごとくかがやくけんじん国国に充満せり、

P1332

かの人人は自行には或は真言を行じ或は般若或は仁王或は阿弥陀仏の名号或は観音或は地蔵或は三千仏或は法華

経読誦しをるとは申せども無智の道俗をすすむるにはただ南無阿弥陀仏と申すべし、譬えば女人の幼子をまうけ

たるに或はほり或はかわ或はひとりなるには母よ母よと申せばききつけぬればかならず他事をすててたすくる習

なり、阿弥陀仏も又是くの如し我等は幼子なり阿弥陀仏は母なり地獄のあな餓鬼のほりなんどにをち入りぬれば

南無阿弥陀仏と申せば音と響きとの如く必ず来りてすくひ給うなりと一切の智人ども教へ給いしかば我が日本国

かく申しならはして年ひさしくなり候。

 然るに日蓮は中国都の者にもあらず辺国の将軍等の子息にもあらず遠国の者民が子にて候いしかば日本国七百

余年に一人もいまだ唱へまいらせ候はぬ南無妙法蓮華経と唱え候のみならず、皆人の父母のごとく日月の如く主

君の如くわたりに船の如く渇して水のごとくうえて飯の如く思いて候南無阿弥陀仏を無間地獄の業なりと申し候

ゆへに食に石をたひたる様にがんせきに馬のはねたるやうに渡りに大風の吹き来たるやうにじゆらくに大火のつ

きたるやうに俄にかたきのよせたるやうにとわりのきさきになるやうにをどろきそねみねたみ候ゆへに去ぬる建

長五年四月二十八日より今弘安二年十一月まで二十七年が間退転なく申しつより候事月のみつるがごとくしほの

さすがごとくはじめは日蓮只一人唱へ候いしほどに、見る人値う人聞く人耳をふさぎ眼をいからかし口をひそめ

手をにぎりはをかみ父母兄弟師匠ぜんうもかたきとなる、後には所の地頭領家かたきとなる後には一国さはぎ後

には万民をどろくほどに、或は人の口まねをして南無妙法蓮華経ととなへ或は悪口のためにとなへ或は信ずるに

似て唱へ或はそしるに似て唱へなんどする程に、すでに日本国十分が一分は一向南無妙法蓮華経のこりの九分は

或は両方或はうたがひ或は一向念仏者なる者は父母のかたき主君のかたき宿世のかたきのやうにののしる、村主

郷主国主等は謀叛の者のごとくあだまれたり、

P1333

かくの如く申す程に大海の浮木の風に随いて定めなきが如く軽毛の虚空にのぼりて上下するが如く日本国ををは

れあるく程に、或時はうたれ或時はいましめられ或時は疵をかほふり或時は遠流或時は弟子をころされ或時はう

ちをはなれなんどする程に、去ぬる文永八年九月十二日には御かんきをかほりて北国佐渡の島にうつされて候い

しなり、世間には一分のとがもなかりし身なれども故最明寺入道殿極楽寺入道殿を地獄に堕ちたりと申す法師な

れば謀叛の者にもすぎたりとて相州鎌倉竜口と申す処にて頚を切らんとし候いしが科は大科なれども法華経の行

者なれば左右なくうしなひなばいかんがとやをもはれけん、又遠国の島にすてをきたるならばいかにもなれかし

 上ににくまれたる上万民も父母のかたきのやうにおもひたれば道にても又国にても若しはころすか若しはかつ

えしぬるかにならんずらんとあてがはれて有りしに、法華経十羅刹の御めぐみにやありけん、或は天とがなきよ

しを御らんずらんにやありけん、島にてあだむ者は多かりしかども中興の次郎入道と申せし老人ありき、彼の人

は年ふりたる上心かしこく身もたのしくて国の人にも人とをもはれたりし人の此の御房はゆへある人にやと申し

けるかのゆへに子息等もいたうもにくまず、其の已下の者どもたいし彼等の人人の下人にてありしかば内内あや

まつ事もなく唯上の御計いのままにてありし程に、水は濁れども又すみ月は雲かくせども又はるることはりなれ

ば、科なき事すでにあらわれていゐし事もむなしからざりけるかのゆへに、御一門諸大名はゆるすべからざるよ

し申されけれども相模守殿の御計らひばかりにてついにゆりて候いてのぼりぬ、ただし日蓮は日本国には第一の

忠の者なり肩をならぶる人は先代にもあるべからず後代にもあるべしとも覚えず。

 其の故は去ぬる正嘉年中の大地震文永元年の大長星の時内外の智人其の故をうらなひしかどもなにのゆへいか

なる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、

P1334

日蓮一切経蔵に入りて勘へたるに真言禅宗念仏律等の権小の人人をもつて法華経をかろしめたてまつる故に梵天

帝釈の御とがめにて西なる国に仰せ付けて日本国をせむべしとかんがへて、故最明寺入道殿にまいらせ候いき、

此の事を諸道の者、をこつきわらひし程に九箇年すぎて去ぬる文永五年に大蒙古国より日本国ををそうべきよし

牒状わたりぬ、此の事のあふ故に念仏者真言師等あだみて失はんとせしなり、例せば漢土に玄宗皇帝と申せし御

門の御后に上陽人と申せし美人あり、天下第一の美人にてありしかば楊貴妃と申すきさきの御らんじて此の人王

へまいるならば我がをぼへをとりなんとて宣旨なりと申しかすめて、父母兄弟をば或はながし或は殺し上陽人を

ばろうに入れて四十年までせめたりしなり、此れもそれににて候、日蓮が勘文あらわれて大蒙古国を調伏し日本

国かつならば此の法師は日本第一の僧となりなん、我等が威徳をとろうべしと思うかのゆへに讒言をなすをばし

ろしめさずして、彼等がことばを用いて国を亡さんとせらるるなり、例せば二世王は趙高が讒言によりて李斯を

失ひかへりて趙高が為に身をほろぼされ、延喜の御門はしへいのをとどの讒言によりて菅丞相を失いて地獄にお

ち給いぬ、此れも又かくの如し、法華経のかたきたる真言師禅宗律僧持斎念仏者等が申す事を御用いありて日蓮

をあだみ給うゆへに、日蓮はいやしけれども所持の法華経を釈迦多宝十方の諸仏梵天帝釈日月四天竜神天照太神

八幡大菩薩人の眼をおしむがごとく諸天の帝釈をうやまうがごとく母の子を愛するがごとくまほりおもんじ給う

ゆへに、法華経の行者をあだむ人を罰し給う事父母のかたきよりも朝敵よりも重く大科に行ひ給うなり。

 然るに貴辺は故次郎入道殿の御子にてをはするなり御前は又よめなりいみじく心かしこかりし人の子とよめと

にをはすればや、故入道殿のあとをつぎ国主も御用いなき法華経を御用いあるのみならず法華経の行者をやしな

はせ給いてとしどしに千里の道をおくりむかへ去ぬる幼子のむすめ御前の十三年に丈六のそとば(`堵波)をた

てて其の面に南無妙法蓮華経の七字を顕してをはしませば、

P1335

北風吹けば南海のいろくづ其の風にあたりて大海の苦をはなれ東風きたれば西山の鳥鹿其の風を身にふれて畜生

道をまぬかれて都率の内院に生れん、況やかのそとばに随喜をなし手をふれ眼に見まいらせ候人類をや、過去の

父母も彼のそとばの功徳によりて天の日月の如く浄土をてらし孝養の人並びに妻子は現世には寿を百二十年持ち

て後生には父母とともに霊山浄土にまいり給はん事水すめば月うつりつづみをうてばひびきのあるがごとしとを

ぼしめし候へ等云云、此れより後後の御そとばにも法華経の題目を顕し給へ。

=弘安二年己卯十一月卅日          身延山 日蓮花押

%中興入道殿女房