松野殿御返事

松野殿御返事

 鵞目一結白米一駄白小袖一送り給畢ぬ、抑も此の山と申すは南は野山漫漫として百余里に及べり、北は身延山

高く峙ちて白根が嶽につづき西には七面と申す山峨峨として白雪絶えず、人の住家一宇もなし、適ま問いくる物

とては梢を伝ふ金ヒなれば少も留まる事なく還るさ急ぐ恨みなる哉、東は富士河漲りて流沙の浪に異ならず、か

かる所なれば訪う人も希なるに加様に度度音信せさせ給ふ事不思議の中の不思議なり。

 実相寺の学徒日源は日蓮に帰伏して所領を捨て弟子檀那に放され御座て我身だにも置き処なき由承り候に日蓮

を訪い衆僧を哀みさせ給う事誠の道心なり聖人なり、已に彼の人は無雙の学生ぞかし然るに名聞名利を捨てて某

が弟子と成りて我が身には我不愛身命の修行を致し仏の御恩を報ぜんと面面までも教化申し此くの如く供養等ま

で捧げしめ給う事不思議なり、末世には狗犬の僧尼は恒沙の如しと仏は説かせ給いて候なり、文の意は末世の僧

比丘尼は名聞名利に著し上には袈裟衣を著たれば形は僧比丘尼に似たれども内心には邪見の剣を提げて我が出入

する檀那の所へ余の僧尼をよせじと無量の讒言を致す、余の僧尼を寄せずして檀那を惜まん事譬えば犬が前に人

の家に至て物を得て食ふが、後に犬の来るを見ていがみほへ食合が如くなるべしと云う心なり、是くの如きの僧

尼は皆皆悪道に堕すべきなり、此学徒日源は学生なれば此の文をや見させ給いけん、殊の外に僧衆を訪ひ顧み給

う事誠に有り難く覚え候。

 御文に云く此の経を持ち申して後退転なく十如是自我偈を読み奉り題目を唱へ申し候なり、但し聖人の唱えさ

せ給う題目の功徳と我れ等が唱へ申す題目の功徳と何程の多少候べきやと云云、更に勝劣あるべからず候、

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其の故は愚者の持ちたる金も智者の持ちたる金も愚者の然せる火も智者の然せる火も其の差別なきなり、但し此

の経の心に背いて唱へば其の差別有るべきなり、此の経の修行に重重のしなあり其大概を申せば記の五に云く「

悪の数を明かすことをば今の文には説不説と云ふのみ」、有る人此れを分つて云く「先きに悪因を列ね次ぎに悪

果を列ぬ悪の因に十四あり一に、慢二に懈怠三に計我四に浅識五に著欲六に不解七に不信八に顰蹙九に疑惑十に

誹謗十一に軽善十二に憎善十三に嫉善十四に恨善なり」此の十四誹謗は在家出家に亘るべし恐る可し恐る可し、

過去の不軽菩薩は一切衆生に仏性あり法華経を持たば必ず成仏すべし、彼れを軽んじては仏を軽んずるになるべ

しとて礼拝の行をば立てさせ給いしなり、法華経を持たざる者をさへ若し持ちやせんずらん仏性ありとてかくの

如く礼拝し給う何に況や持てる在家出家の者をや、此の経の四の巻には「若しは在家にてもあれ出家にてもあれ

、法華経を持ち説く者を一言にても毀る事あらば其の罪多き事、釈迦仏を一劫の間直ちに毀り奉る罪には勝れた

り」と見へたり、或は「若実若不実」とも説かれたり、之れを以つて之れを思ふに忘れても法華経を持つ者をば

互に毀るべからざるか、其故は法華経を持つ者は必ず皆仏なり仏を毀りては罪を得るなり。

 加様に心得て唱うる題目の功徳は釈尊の御功徳と等しかるべし、釈に云く阿鼻の依正は全く極聖の自身に処し

毘盧の身土は凡下の一念を逾えず云云、十四誹謗の心は文に任せて推量あるべし、加様に法門を御尋ね候事誠に

後世を願はせ給う人か能く是の法を聴く者は斯の人亦復難しとて此経は正き仏の御使世に出でずんば仏の御本意

の如く説く事難き上、此の経のいはれを問い尋ねて不審を明らめ能く信ずる者難かるべしと見えて候、何に賎者

なりとも少し我れより勝れて智慧ある人には此の経のいはれを問い尋ね給うべし、然るに悪世の衆生は我慢偏執

名聞名利に著して彼れが弟子と成るべきか彼れに物を習はば人にや賎く思はれんずらんと、不断悪念に住して悪

道に堕すべしと見えて候、法師品には「人有りて八十億劫の間無量の宝を尽して仏を供養し奉らん功徳よりも

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法華経を説かん僧を供養して後に須臾の間も此の経の法門を聴聞する事あらば我れ大なる利益功徳を得べしと悦

ぶべし」と見えたり、無智の者は此の経を説く者に使れて功徳をうべし、何なる鬼畜なりとも法華経の一偈一句

をも説かん者をば「当に起ちて遠く迎えて当に仏を敬うが如くすべし」の道理なれば仏の如く互に敬うべし、例

せば宝塔品の時の釈迦多宝の如くなるべし。

 此の三位房は下劣の者なれども少分も法華経の法門を申す者なれば仏の如く敬いて法門を御尋ねあるべし、依

法不依人此れを思ふべし、されば昔独りの人有りて雪山と申す山に住み給き其の名を雪山童子と云う、蕨をおり

菓を拾いて命をつぎ鹿の皮を著物とこしらへ肌をかくし閑に道を行じ給いき、此の雪山童子おもはれけるは倩世

間を観ずるに生死無常の理なれば生ずる者は必ず死す、されば憂世の中のあだはかなき事譬ば電光の如く朝露の

日に向ひて消るに似たり、風の前の灯の消へやすく芭蕉の葉の破やすきに異ならず、人皆此の無常を遁れず終に

一度は黄泉の旅に趣くべし、然れば冥途の旅を思うに闇闇としてくらければ日月星宿の光もなく、せめて灯燭と

てともす火だにもなし、かかる闇き道に又ともなふ人もなし、娑婆にある時は親類兄弟妻子眷属集りて父は慈み

の志高く母は悲しみの情深く、夫婦は海老同穴の契りとて大海にあるえびは同じ畜生ながら夫妻ちぎり細かに、

一生一処にともなひて離れ去る事なきが如く鴛鴦の衾の下に枕を並べて遊び戯る中なれども彼の冥途の旅には伴

なふ事なし、冥冥として独り行く誰か来りて是非を訪はんや、或は老少不定の境なれば老いたるは先立若きは留

まる是れは順次の道理なり歎きの中にもせめて思いなぐさむ方も有りぬべし、老いたるは留まり若きは先立つさ

れば恨の至つて恨めしきは幼くして親に先立つ子、嘆きの至つて歎かしきは老いて子を先立つる親なり、是くの

如く生死無常老少不定の境あだにはかなき世の中に但昼夜に今生の貯をのみ思ひ朝夕に現在の業をのみなして、

仏をも敬はず法をも信ぜず無行無智にして徒らに明し暮して、閻魔の庁庭に引き迎へられん時は何を以つてか資

糧として三界の長途を行き、

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何を以て船筏として生死の曠海を渡りて実報寂光の仏土に至らんやと思ひ、迷へば夢覚れば寤しかじ夢の憂世を

捨てて寤の覚りを求めんにはと思惟し、彼の山に篭りて観念の牀の上に妄想顛倒の塵を払ひ偏に仏法を求め給う

所に。

 帝釈遥に天より見下し給いて思し食さるる様は、魚の子は多けれども魚となるは少なく菴羅樹の花は多くさけ

ども菓になるは少なし、人も又此くの如し菩提心を発す人は多けれども退せずして実の道に入る者は少し、都て

凡夫の菩提心は多く悪縁にたぼらかされ事にふれて移りやすき物なり、鎧を著たる兵者は多けれども戦に恐れを

なさざるは少なきが如し、此の人の意を行て試みばやと思いて帝釈鬼神の形を現じ童子の側に立ち給う、其の時

仏世にましまさざれば雪山童子普く大乗経を求むるに聞くことあたはず、時に諸行無常是生滅法と云う音ほのか

に聞ゆ、童子驚き四方を見給うに人もなし但鬼神近付て立ちたり、其の形けはしくをそろしくて頭のかみは炎の

如く口の歯は剣の如く目を瞋らして雪山童子をまほり奉る、此れを見るにも恐れず偏に仏法を聞かん事を喜び怪

しむ事なし、譬えば母を離れたるこうしほのかに母の音を聞きつるが如し、此事誰か誦しつるぞいまだ残の語あ

らんとて普ねく尋ね求るに更に人もなければ、若しも此の語は鬼神の説きつるかと疑へどもよもさもあらじと思

ひ彼の身は罪報の鬼神の形なり此の偈は仏の説き給へる語なり、かかる賎き鬼神の口より出づべからずとは思へ

ども、亦殊に人もなければ若し此の語汝が説きつるかと問へば、鬼神答て云う我れに物な云いそ食せずして日数

を経ぬれば飢え疲れて正念を覚えず、既にあだごと云いつるならん我うつける意にて云へば知る事もあらじと答

ふ、童子の云く我れは此の半偈を聞きつる事半なる月を見るが如く半なる玉を得るに似たり、慥に汝が語なり願

くは残れる偈を説き給へとのたまふ、鬼神の云く汝は本より悟あれば聞かずとも恨は有るべからず吾は今飢に責

められたれば物を云うべき力なし都て我に向いて物な云いそと云う、童子猶物を食ては説かんやと問う、鬼神答

て食ては説きてんと云う、

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童子悦びてさて何物をか食とするぞと問へば、鬼神の云く汝更に問うべからず此れを聞きては必ず恐を成さん、

亦汝が求むべき物にもあらずと云へば童子猶責めて問い給はく其の物をとだにも云はば心みにも求めんとの給え

ば鬼神の云く我れ但人の和らかなる肉を食し人のあたたかなる血を飲む、空を飛び普ねく求れども人をば各守り

給う仏神ましませば心に任せて殺しがたし、仏神の捨て給う衆生を殺して食するなりと云う、其時雪山童子の思

い給はく我れ法の為に身を捨て此の偈を聞き畢らんと思いて、汝が食物ここに有り外に求むべきにあらず、我が

身いまだ死せず其の肉あたたかなり我が身いまだ寒ず其の血あたたかならん、願くは残の偈を説き給へ此の身を

汝に与えんと云う、時に鬼神大に瞋て云く誰か汝が語を実とは憑むべき、聞いて後には誰をか証人として糾さん

と云う、雪山童子の云く此の身は終に死すべし徒に死せん命を法の為に投げばきたなくけがらはしき身を捨てて

後生は必ず覚りを開き仏となり清妙なる身を受くべし、土器を捨てて宝器に替るが如くなるべし、梵天帝釈四大

天王十方の諸仏菩薩を皆証人とせん我れ更に偽るべからずとの給えり、其の時鬼神少し和で若し汝が云う処実な

らば偈を説かんと云う其の時雪山童子大に悦んで身に著たる鹿の皮を脱いで法座に敷頭を地に付け掌を合せ跪き

、但願くは我が為に残の偈を説き給へと云うて至心に深く敬い給ふ、さて法座に登り鬼神偈を説いて云く生滅滅

已寂滅為楽と此の時雪山童子是を聞き悦び貴み給う事限なく後生までも忘れじと度度誦して深く其の心にそめ、

悦ばしき処はこれ仏の説き給へるにも異ならず歎かわ敷き処は我れ一人のみ聞きて人の為に伝へざらん事をと深

く思いて石の上壁の面路の辺の諸木ごとに此の偈を書き付け願くは後に来らん人必ず此の文を見其の義理をさと

り実の道に入れと云い畢つて、即高き木に登りて鬼神の前に落ち給へり、いまだ地に至らざるに鬼神俄に帝釈の

形と成りて雪山童子の其身を受取りて平かなる所にすえ奉りて恭敬礼拝して云く我れ暫く如来の聖教を惜みて試

に菩薩の心を悩し奉るなり、願くは此の罪を許して後世には必ず救ひ給へと云ふ、

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一切の天人又来りて善哉善哉実に是れ菩薩なりと讃め給ふ、半偈の為めに身を投げて十二劫生死の罪を滅し給へ

り此の事涅槃経に見えたり、然れば雪山童子の古を思へば半偈の為に猶命を捨て給ふ、何に況や此の経の一品一

巻を聴聞せん恩徳をや何を以てか此れを報ぜん、尤も後生を願はんには彼の雪山童子の如くこそあらまほしくは

候へ、誠に我が身貧にして布施すべき宝なくば我が身命を捨て仏法を得べき便あらば身命を捨てて仏法を学すべ

し。

 とても此の身は徒に山野の土と成るべし惜みても何かせん惜むとも惜みとぐべからず人久しといえども百年に

は過ず其の間の事は但一睡の夢ぞかし、受けがたき人身を得て適ま出家せる者も仏法を学し謗法の者を責めずし

て徒らに遊戯雑談のみして明し暮さん者は法師の皮を著たる畜生なり、法師の名を借りて世を渡り身を養うとい

へども法師となる義は一もなし法師と云う名字をぬすめる盗人なり、恥づべし恐るべし、迹門には「我身命を愛

せず但だ無上道を惜しむ」ととき本門には「自ら身命を惜まず」ととき涅槃経には「身は軽く法は重し身を死し

て法を弘む」と見えたり、本迹両門涅槃経共に身命を捨てて法を弘むべしと見えたり、此等の禁を背く重罪は目

には見えざれども積りて地獄に堕つる事譬ば寒熱の姿形もなく眼には見えざれども、冬は寒来りて草木人畜をせ

め夏は熱来りて人畜を熱悩せしむるが如くなるべし。

 然るに在家の御身は但余念なく南無妙法蓮華経と御唱えありて僧をも供養し給うが肝心にて候なり、それも経

文の如くならば随力演説も有るべきか、世の中ものうからん時も今生の苦さへかなしし、況や来世の苦をやと思

し食しても南無妙法蓮華経と唱へ、悦ばしからん時も今生の悦びは夢の中の夢霊山浄土の悦びこそ実の悦びなれ

と思し食し合せて又南無妙法蓮華経と唱へ、退転なく修行して最後臨終の時を待って御覧ぜよ、妙覚の山に走り

登つて四方をきつと見るならばあら面白や法界寂光土にして瑠璃を以つて地とし金の繩を以つて八の道を界へり

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天より四種の花ふり虚空に音楽聞えて、諸仏菩薩は常楽我浄の風にそよめき娯楽快楽し給うぞや、我れ等も其の

数に列なりて遊戯し楽むべき事はや近づけり、信心弱くしてはかかる目出たき所に行くべからず行くべからず、

不審の事をば尚尚承はるべく候、穴賢穴賢。

= 建治二年丙子十二月九日                   日蓮花押

%   松野殿御返事