新池御書

新池御書   /弘安三年二月 五十九歳御作

 うれしきかな末法流布に生れあへる我等かなしきかな今度此の経を信ぜざる人人、抑人界に生を受くるもの誰

か無常を免れん、さあらんに取つては何ぞ後世のつとめをいたさざらんや、倩世間の体を観ずれば人皆口には此

の経を信じ手には経巻をにぎるといへども経の心にそむく間悪道を免れ難し、譬えば人に皆五臓あり一臓も損ず

れば其の臓より病出て来て余の臓を破り終に命を失うが如し、爰を以て伝教大師は「法華経を讃すと雖も還つて

法華の心を死す」等云云、文の心は法華経を持ち読み奉り讃むれども法華の心に背きぬれば還つて釈尊十方の諸

仏を殺すに成りぬと申す意なり、終に世間の悪業衆罪は須弥の如くなれども此の経にあひ奉りぬれば諸罪は霜露

の如くに法華経の日輪に値い奉りて消ゆべし、然れども此の経の十四謗法の中に一も二もをかしぬれば其の罪消

えがたし、所以は何ん一大三千界のあらゆる有情を殺したりとも争か一仏を殺す罪に及ばんや、法華の心に背き

ぬれば十方の仏の命を失ふ罪なり、此のをきてに背くを謗法の者とは申すなり、地獄おそるべし炎を以て家とす

、餓鬼悲むべし飢渇にうへて子を食ふ、修羅は闘諍なり畜生は残害とて互に殺しあふ、紅蓮地獄と申すはくれな

ゐのはちすとよむ、其の故は余りに寒につめられてこごむ間せなかわれて肉の出でたるが紅の蓮に似たるなり、

況や大紅蓮をや、かかる悪所にゆけば王位将軍も物ならず獄卒の呵責にあへる姿は猿をまはすに異ならず、此の

時は争か名聞名利我慢偏執有るべきや。

 思食すべし法華経をしれる僧を不思議の志にて一度も供養しなば悪道に行くべからず、何に況や十度二十度乃

至五年十年一期生の間供養せる功徳をば仏の智慧にても知りがたし、

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此の経の行者を一度供養する功徳は釈迦仏を直ちに八十億劫が間無量の宝を尽して供養せる功徳に百千万億勝れ

たりと仏は説かせ給いて候、此の経にあひ奉りぬれば悦び身に余り左右の眼に涙浮びて釈尊の御恩報じ尽しがた

し、かやうに此の山まで度度の御供養は法華経並に釈迦尊の御恩を報じ給うに成るべく候、弥はげませ給うべし

懈ることなかれ、皆人の此の経を信じ始むる時は信心有る様に見え候が中程は信心もよはく僧をも恭敬せず供養

をもなさず自慢して悪見をなす、これ恐るべし恐るべし、始より終りまで弥信心をいたすべしさなくして後悔や

あらんずらん、譬えば鎌倉より京へは十二日の道なり、それを十一日余り歩をはこびて今一日に成りて歩をさし

をきては何として都の月をば詠め候べき、何としても此の経の心をしれる僧に近づき弥法の道理を聴聞して信心

の歩を運ぶべし。

噫過ぎし方の程なきを以て知んぬ我等が命今幾程もなき事を春の朝に花をながめし時ともなひ遊びし人は花と

共に無常の嵐に散りはてて名のみ残りて其の人はなし花は散りぬといへども又こん春も発くべしされども消えに

し人は亦いかならん世にか来るべき秋の暮に月を詠めし時戯れむつびし人も月と共に有為の雲に入りて後面影ば

かり身にそひて物いふことなし月は西山に入るといへども亦こん秋も詠むべし然れどもかくれし人は今いづくに

か住みぬらんおぼつかなし無常の虎のなく音は耳にちかづくといへども聞いて驚くことなし屠所の羊の今幾日か

無常の道を歩まん雪山の寒苦鳥は寒苦にせめられて夜明なば栖つくらんと鳴くといへども日出でぬれば朝日のあ

たたかなるに眠り忘れて又栖をつくらずして一生虚く鳴くことをう一切衆生も亦復是くの如し地獄に堕ちて炎に

むせぶ時は願くは今度人間に生れて諸事を閣ひて三宝を供養し後世菩提をたすからんと願へどもたまたま人間に

来る時は名聞名利の風はげしく仏道修行の灯は消えやすし、無益の事には財宝をつくすにおしからず、仏法僧に

すこしの供養をなすには是をものうく思ふ事これただごとにあらず、地獄の使のきをふものなり寸善尺魔と申す

は是なり、其の上此の国は謗法の土なれば守護の善神は法味にうへて社をすて天に上り給へば社には悪鬼入りか

はりて多くの人を導く、

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仏陀化をやめて寂光土へ帰り給へば堂塔寺社は徒に魔縁の栖と成りぬ、国の費民の歎きにていらかを並べたる計

りなり、是れ私の言にあらず経文にこれあり習ふべし。

 諸仏も諸神も謗法の供養をば全く請け取り給はず況や人間としてこれをうくべきや、春日大明神の御託宣に云

く飯に銅の炎をば食すとも心穢れたる人の物をうけじ、座に銅の焔には坐すとも心汚れたる人の家にはいたらじ

、草の廊萱の軒にはいたるべしと云へり、縦令千日のしめを引くとも不信の所には至らじ、重服深厚の家なりと

も有信の所には至るべし云云、是くの如く善神は此の謗法の国をばなげきて天に上らせ給いて候、心けがれたる

と申すは法華経を持たざる人の事なり、此の経の五の巻に見えたり、謗法の供養をば銅焔とこそおほせられたれ

、神だにも是くの如し況や我等凡夫としてほむらをば食すべしや、人の子として我が親を殺したらんものの我に

物をえさせんに是を取るべきや、いかなる智者聖人も無間地獄を遁るべからず、又それにも近づくべからず与同

罪恐るべし恐るべし。

 釈尊は一切の諸仏一切の諸神人天大会一切衆生の父なり主なり師なり、此の釈尊を殺したらんに争か諸天善神

等うれしく思食すべき、今此の国の一切の諸人は皆釈尊の御敵なり、在家の俗男俗女等よりも邪智心の法師ばら

は殊の外の御敵なり、智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず、貴僧高僧には依

るべからず、賎き者なりとも此の経の謂れを知りたらんものをば生身の如来のごとくに礼拝供養すべし是れ経文

なり、されば伝教大師は無智破戒の男女等も此の経を信ぜん者は小乗二百五十戒の僧の上に座席に居よ末座すべ

からず況や大乗此の経の僧をやとあそばされたり、今生身の如来の如くにみえたる極楽寺の良観房よりも此の経

を信じたる男女は座席を高く居ることこそ候へ、彼の二百五十戒の良観房も日蓮に会いぬれば腹をたて眼をいか

らす是ただごとにはあらず、智者の身に魔の入りかはればなり、譬えば本性よき人なれども酒に酔いぬればあし

き心出来し人の為にあしきが如し、

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仏は法華以前の迦葉舎利弗目連等をば是を供養せん者は三悪道に墮つべし、彼が心は犬野干の心には劣れりと説

き給いて候なり、彼の四大声聞等は二百五十戒を持つことは金剛の如し三千の威儀具足する事は十五夜の月の如

くなりしかども法華経を持たざる時は是くの如く仰せられたり、何に況やそれに劣れる今時の者共をや。

 建長寺円覚寺の僧共の作法戒文を破る事は大山の頽れたるが如く威儀の放埒なることは猿に似たり、是を供養

して後世を助からんと思ふははかなしはかなし、守護の善神此の国を捨つる事疑あることなし、昔釈尊の御 前

にして諸天善神菩薩声聞異口同音に誓をたてさせ給いて若し法華経の御敵の国あらば或は六月に霜霰と成りて国

を飢饉せさせんと申し、或は小虫と成りて五穀をはみ失はんと申し、或は旱魃をなさん或は大水と成りて田園を

ながさんと申し、或は大風と成りて人民を吹き殺さんと申し、或は悪鬼と成りてなやまさんと面面に申させ給ふ

、今の八幡大菩薩も其の座におはせしなり争か霊山の起請の破るるをおそれ給はざらん、起請を破らせ給はば無

間地獄は疑なき者なり恐れ給うべし恐れ給うべし、今までは正く仏の御使出世して此の経を弘めず国主もあなが

ちに御敵にはならせ給はず但いづれも貴しとのみ思ふ計りなり。

 今某仏の御使として此の経を弘むるに依りて上一人より下万民に至るまで皆謗法と成り畢んぬ、今までは此の

国の者ども法華経の御敵にはなさじと一子のあひにくの如く捨てかねておはせども霊山の起請のおそろしさに社

を焼き払いて天に上らせ給いぬ、さはあれども身命をおしまぬ法華経の行者あれば其の頭には住むべし、天照太

神八幡大菩薩天に上らせ給はば其の余の諸神争か社に留るべき、縦ひ捨てじと思食すとも霊山のやくそくのまま

に某呵責し奉らば一日もやはかおはすべき、譬えば盗人の候に知れぬ時はかしこやここに住み候へども能く案内

知りたる者の是こそ盗人とののしりどめけばおもはぬ外に栖を去るが如く、某にささへられて社をば捨て給ふ、

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然るに此の国思いの外に悪鬼神の住家となれり哀なり哀なり。

 又一代聖教を弘むる人多くおはせども是れ程の大事の法門をば伝教天台もいまだ仰せられず、其も道理なり末

法の始の五百年に上行菩薩の出世あつて弘め給ふべき法門なるが故なり、相構へていかにしても此の度此の経を

能く信じて命終の時千仏の迎いに預り霊山浄土に走りまいり自受法楽すべし、信心弱くして成仏ののびん時某を

うらみさせ給ふな、譬えば病者に良薬を与ふるに毒を好んでくひぬれば其の病愈えがたき時我がとがとは思はず

還って医師を恨むるが如くなるべし、此の経の信心と申すは少しも私なく経文の如くに人の言を用ひず法華一部

に背く事無ければ仏に成り候ぞ、仏に成り候事は別の様は候はず、南無妙法蓮華経と他事なく唱へ申して候へば

天然と三十二相八十種好を備うるなり、如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり、譬えば鳥の卵

は始は水なり其の水の中より誰かなすともなけれども觜よ目よと厳り出来て虚空にかけるが如し、我等も無明の

卵にしてあさましき身なれども南無妙法蓮華経の唱への母にあたためられまいらせて三十二相の觜出でて八十種

好の鎧毛生そろひて実相真如の虚空にかけるべし、爰を以て経に云く「一切衆生は無明の卵に処して智慧の口ば

しなし、仏母の鳥は分段同居の古栖に返りて無明の卵をたたき破りて一切衆生の鳥をすだてて法性真如の大虚に

とばしむ」と説けり取意。

 有解無信とて法門をば解りて信心なき者は更に成仏すべからず、有信無解とて解はなくとも信心あるものは成

仏すべし、皆此の経の意なり私の言にはあらずされば二の巻には「信を以て入ることを得己が智分に非ず」とて

智慧第一の舎利弗も但此の経を受け持ち信心強盛にして仏になれり己が智慧にて仏にならずと説き給へり、舎利

弗だにも智慧にては仏にならず、況や我等衆生少分の法門を心得たりとも信心なくば仏にならんことおぼつかな

し、末代の衆生は法門を少分こころえ僧をあなづり法をいるかせにして悪道におつべしと説き給へり、

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法をこころえたるしるしには僧を敬ひ法をあがめ仏を供養すべし、今は仏ましまさず解悟の智識を仏と敬ふべし

争か徳分なからんや、後世を願はん者は名利名聞を捨てて何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来

の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり。

 今時の禅宗は大段仁義礼智信の五常に背けり、有智の高徳をおそれ老いたるを敬ひ幼きを愛するは内外典の法

なり、然るを彼の僧家の者を見れば昨日今日まで田夫野人にして黒白を知らざる者もかちんの直綴をだにも著つ

ればうち慢じて天台真言の有智高徳の人をあなづり礼をもせず其の上に居らんと思うなり、是れ傍若無人にして

畜生に劣れり、爰を以て伝教大師の御釈に云く川獺祭魚のこころざし林烏父祖の食を通ず鳩鴿三枝の礼あり行雁

連を乱らず羔羊踞りて乳を飲む賎き畜生すら礼を知ること是くの如し、何ぞ人倫に於て其の礼なからんやとあそ

ばされたり取意、彼等が法に迷ふ事道理なり、人倫にしてだにも知らず是れ天魔破旬のふるまひにあらずや。

是等の法門を能く能く明らめて一部八巻廿八品を頭にいただき懈らず行ひ給へ、又某を恋しくおはせん時は日

日に日を拝ませ給へ某は日に一度天の日に影をうつす者にて候、此の僧によませまひらせて聴聞あるべし、此の

僧を解悟の智識と憑み給いてつねに法門御たづね候べし、聞かずんば争か迷闇の雲を払はん足なくして争か千里

の道を行かんや、返す返す此の書をつねによませて御聴聞あるべし、事事面の次を期し候間委細には申し述べず

候、穴賢穴賢、=弘安三年二月 日 日蓮御判

% 新池殿

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