南条殿御返事

南条殿御返事     /建治二年三月 五十五歳御作

かたびら一つしをいちだ(塩一駄)あぶら五そう給び候い了んぬ、ころもはかんをふせぎ又ねつをふせぐみをか

くしみをかざる、法華経の第七やくわうぼん(薬王品)に云く「如裸者得衣」等云云、心ははだかなるもののこ

ろもをへたるがごとし、もんの心はうれしき事をとかれて候。

 ふほうぞう(付法蔵)の人のなかに商那和衆と申す人あり衣をきてむまれさせ給う、これは先生に仏法にころ

もをくやうせし人なり、されば法華経に云く「柔和忍辱衣」等云云、こんろん山には石なしみのぶのたけにはし

をなし、石なきところにはたまよりもいしすぐれたり、しをなきところにはしをこめにもすぐれて候、国王のた

からは左右の大臣なり左右の大臣をば塩梅と申す、みそしをなければよわたりがたし左右の臣なければ国をさま

らず、あぶらと申すは涅槃経に云く風のなかにあぶらなしあぶらのなかにかぜなし風をぢする第一のくすりなり

、かたがたのものをくり給いて候御心ざしのあらわれて候事申すばかりなし、せんするところはこなんでうどの

(故南条殿)の法華経の御しんようのふかかりし事のあらわるるか、王の心ざしをば臣のべをやの心ざしをば子

の申しのぶるとはこれなり、あわれことののうれしとをぼすらん。

 つくしにををはしの太郎と申しける大名ありけり、大将どのの御かんきをかほりてかまくらゆひのはまつちの

ろうにこめられて十二年めしはじしめられしときつくしをうちいでしにごぜんにむかひて申せしはゆみやとるみ

となりてきみの御かんきをかほらんことはなげきならず、又ごぜんにをさなくよりなれしかいまはなれん事いう

ばかりなし、これはさてをきぬ、なんしにてもによしにても一人なき事なげきなり、

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ただしくわいにんのよしかたらせ給うをうなごにてやあらんずらんをのこごにてや候はんずらん、ゆくへをみざ

らん事くちおし、又かれが人となりてちちというものもなからんなげき、いかがせんとをもへども力及ばずとて

いでにき。

 かくて月ひすぐれことゆへなく生れにきをのこごにてありけり、七歳のとしやまでらにのぼせてありければと

もだちなりけるちごどもをやなしとわらひけり、いへにかへりてははにちちをたづねけり、ははのぶるかたなく

してなくより外のことなし、此のちご申す天なくしては雨ふらず地なくしてはくさをいず、たとい母ありともち

ちなくばひととなるべからず、いかに父のありどころをばかくし給うぞとせめしかば母せめられて云うわちごを

さなければ申さぬなりありやうはかうなり、此のちごなくなく申すやうさてちちのかたみはなきかと申せしかば

、これありとてををはしのせんぞの日記ならびにはらの内なる子にゆづれる自筆の状なり、いよいよをやこひし

くてなくより外の事なし、さていかがせんといゐしかばこれより郎従あまたともせしかども御かんきをかほりけ

ればみなちりうせぬ、そののちはいきてや又しにてやをとづるる人なしとかたりければふしころびなきていさむ

るをももちゐざりけり。

 ははいわくをのれをやまでらにのぼする事はをやのけうやうのためなり、仏に花をもまいらせよ経をも一巻よ

みて孝養とすべしと申せしかばいそぎ寺にのぼりていえへかへる心なし、昼夜に法華経をよみしかばよみわたり

けるのみならずそらにをぼへてありけり、さて十二のとし出家をせずしてかみをつつみとかくしてつくしをにげ

いでてかまくらと申すところへたづねいりぬ。

 八幡の御前にまいりてふしをがみ申しけるは八幡大菩薩は日本第十六の王本地は霊山浄土に法華経をとかせ給

いし教主釈尊なり、衆生のねがいをみて給わんがために神とあらわれさせ給う、今わがねがいみてさせ給え、

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をやは生きて候か、しにて候かと申していぬの時より法華経をはじめてとらの時までによみければなにとなきを

さなきこへはうでんにひびきわたりこころすごかりければまいりてありける人人もかへらん事をわすれにき、皆

人いちのやうにあつまりてみければをさなき人にて法師ともをぼえずをうなにてもなかりけり。

 をりしもきやうのにゐどの御さんけいありけり、人めをしのばせ給いてまいり給いたりけれども御経のたうと

き事つねにもすぐれたりければはつるまで御聴聞ありけりさてかへらせ給いておはしけるがあまりなごりをしさ

に人をつけてをきて大将殿へかかる事ありと申させ給いければめして持仏堂にして御経よませまいらせ給いけり

 さて次の日又御聴聞ありければ西のみかど人さわぎけり、いかなる事ぞとききしかば今日はめしうどのくびき

らるるとののしりけり、あわれわがをやはいままで有るべしとはをもわねどもさすが人のくびをきらるると申せ

ば我が身のなげきとをもひてなみだぐみたりけり、大将殿あやしとごらんじてわちごはいかなるものぞありのま

まに申せとありしかば上くだんの事一一に申しけり、をさふらひにありける大名小名みすの内みなそでをしぼり

けり、大将殿かぢわらをめしてをほせありけるは大はしの太郎というめしうどまいらせよとありしかば只今くび

きらんとてゆいのはま(由比浜)へつかわし候いぬ、いまはきりてや侯らんと申せしかばこのちご御まへなりけ

れどもふしころびなきけり、ををせのありけるはかぢわらわれとはしりていまだ切らずばぐしてまいれとありし

かばいそぎいそぎゆいのはま(由比浜)へはせゆく、いまだいたらぬによばわりければすでに頚切らんとて刀を

ぬきたりけるときなりけり。

 さてかじわらををはしの太郎をなわつけながらぐしてまいりてををにはにひきすへたりければ

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大将殿このちごにとらせよとありしかばちごはしりをりてなわをときけり、大はしの太郎はわが子ともしらずい

かなる事ゆへにたすかるともしらざりけり、さて大将殿又めしてこのちごにやうやうの御ふせた(布施給)びて

ををはしの太郎をたぶのみならず、本領をも安堵ありけり。

 大将殿をほせありけるは法華経の御事は昔よりさる事とわききつたへたれども丸は身にあたりて二つのゆへあ

り、一には故親父の御くびを大上入道に切られてあさましともいうばかりなかりしに、いかなる神仏にか申すべ

きとおもいしに走湯山の妙法尼より法華経をよみつたへ千部と申せし時、たかをのもんがく房をやのくびをもて

来りてみせたりし上かたきを打つのみならず日本国の武士の大将を給いてあり、これひとへに法華経の御利生な

り、二つにはこのちごがをやをたすけぬる事不思議なり、大橋の太郎というやつは頼朝きくわいなりとをもうた

とい勅宣なりともかへし申してくびをきりてん、あまりのにくさにこそ十二年まで土のろうには入れてありつる

にかかる不思議あり、されば法華経と申す事はありがたき事なり、頼朝は武士の大将にて多くのつみをつもりて

あれども法華経を信じまいらせて候へばさりともとこそをもへとなみだぐみ給いけり。

 今の御心ざしみ候へば故なんでうどのはただ子なればいとをしとわをぼしめしけるらめどもかく法華経をもて

我がけうやうをすべしとはよもをぼしたらじ、たとひつみありていかなるところにおはすともこの御けうやうの

心ざしをばえんまほうわう(閻魔法王)ぼんでんたひしやくまでもしろしめしぬらん、釈迦仏法華経もいかでか

すてさせ給うべき、かのちごのちちのなわをときしとこの御心ざしかれにたがわず、これはなみだをもちてかき

て候なり。

 又むくりのおこれるよしこれにはいまだうけ給わらず、これを申せば日蓮房はむくり国のわたるといへばよろ

こぶと申すこれゆわれなき事なり、かかる事あるべしと申せしかばあだがたきと人ごとにせめしが経文かぎりあ

れば来るなり

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いかにいうともかなうまじき事なり、失もなくして国をたすけんと申せし者を用いこそあらざらめ、又法華経の

第五の巻をもつて日蓮がおもてをうちしなり、梵天帝釈是を御覧ありき、鎌倉の八幡大菩薩も見させ給いき、い

かにも今は叶うまじき世にて候へばかかる山中にも入りぬるなり、各各も不便とは思へども助けがたくやあらん

ずらん、よるひる法華経に申し候なり、御信用の上にも力もをしまず申させ給え、あえてこれよりの心ざしのゆ

わきにはあらず、各各の御信心のあつくうすきにて候べし、たいしは日本国のよき人人は一定いけどりにぞなり

候はんずらん、あらあさましやあさましや、恐恐謹言。

= 後三月二十四日                    日蓮花押

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