満月城岡山牧石ファミネット > 臨終用心抄(日寛上人著)


臨終用心抄

(日寛上人著)




妙法尼御前(みょうほうあまごぜん)御返事にいわく
先(まず)臨終の事を習(なろ)ふて後に他事を習ふべし」

池田先生は、「21世紀文明と大乗仏教」と題し、アメリカのハーバード大学で、2回目の講演をされました(1993.9.23)。

そのなかで、
−−−近代は「死」という根本課題から目をそらし、その結果「死」の側から手痛いしっぺ返しをうけている。しかし、「死」は決して忌むべきものではなく、生と並んで生命を構成する一つの要素である。法華経では、生死の流転しゆく人生の目的を「衆生所遊楽(しゅじょうしょゆうらく)」とし、信仰の透徹したところ、生も喜びであり、死も喜び、生も遊楽、死も遊楽と説きあかしている。日蓮大聖人も「歓喜の中の大歓喜」と断言されている。−−−と講演されています。

「臨終」については、日寛(にちかん)上人が講義された臨終用心抄(りんじゅうようじんしょう)に詳しいので今回はこれを要約しました。(但し、本抄については講義書等がなく、 浅学で訳したため、誤訳があるかも知れませんが御容赦下さい。正しくは富士宗学要集をご直読下さい。)

日寛上人は、臨終の時がどんなものであるか、また自分が臨終を迎えるにあたっての心構 え、また、人の臨終にどう対応したらよいか具体的に御教示されています。
これを読むと “臨終の時”[刹那(せつな)の臨終]が如何(いか)に大事か、またそれまでの“多年の行 功(ぎょうこう)”[多年の臨終]が如何に大事かがわかると思います。

葬儀という“儀式”は臨終に比べれば、二義的な意味しかなく、日顕宗のいう「葬儀に僧侶を呼ばないと成仏しない」とか、「塔婆を立てないと成仏しない」というのは、大聖人の教義に敵対する邪義です。形骸(けいがい)化した儀式ではなく、故人のことを思い真心 から追善供養する同志の“同志葬”、“友人葬”こそ大聖人の教義にかなうものです。




臨終用心抄




御書に曰く、夫(そ)れ以(おもん)みれば日蓮幼少(ようしょう)の時より仏法を学し候が、念願すらく、人の寿命(いのち)は無常(むじょう)也(なり)、出る気(いき)は入る気(いき)を待つ事なし、風の前の燈(ともしび)、尚譬(たとえ)にあらず、かしこきもはかなきも、老いたるも若きも、定めなき習(なら)い也、されば先(ま)ず臨終のことを習うて後に他事を習うべしと云々。

臨終の時、心が乱れる原因
(1)断末魔(だんまつま)の苦しみのため
断末魔の風が体中におきるとき、骨と肉が離れる。正法念経にいわく、命が尽きるとき風が皆動く、1000の鋭(するど)い刀(かたな)で身を刺すようなものである。もし、善業 があれば、苦悩は多くはない。インドの衆顕という人が書いた顕宗論(けんしゅうろん)にいわく、他人を謗(そし)ることを好み、実(じつ)不実(ふじつ)であっても人の心を傷つけ る者は、風刀の苦しみをうける。

(2)魔の所為(しょい)
ある山寺の法師が世におちて女人と住んでいた。この法師が最後に心安らかに臨終を迎えようと端座合唱して念仏を唱えたが、この時妻が「私を捨ててどこにいくの」と首について引臥(ひきふ)せた。法師は「なにをするのだ。心安く臨終させよ」と念仏を唱えようとしたが又、妻が首について、心安く臨終するのを妨げた。爾前権門(にぜんごんもん)の行者でさえ、このように魔が働いて心安く臨終を迎えるのを妨げる。況や本門寿量文底の行者においては魔が働くのは当然である。

(3)妻子の嘆きや財産に執着するため大蔵(だいぞう)一覧にいわく、一生五戒を持った優婆塞(うばそく:在家の男子)が臨終のとき、妻をあわれむ愛執があったので後に妻の鼻の中の虫に生まれた。鎌倉時代の京都の明道(みょうどう)上人は三大部の抄に執着があったので、聖教のうえに小蛇(しょうじゃ)となって居た。ある長者が金の釜を持っていたが、臨終に惜しいと思ったので、その後、蛇となってこの釜のまわりでとぐろをまいた。

臨終の時、心が乱れないように用心するべき事
(1)断末魔(だんまつま)の時、心が乱れないようにするためにどう用心すればよいか平生から覚悟しておくべきである。

一つには、顕宗論(けんしゅうろん)の意に准じていえば、他人を謗(そし)ってはいけない 、人心を傷切(しょうせつ)してはいけない。常日頃(つねひごろ)の用心が必要。

二つには、この身はもともと「有(う)」だった訳ではなく、先世からの妄想でこの身を受 けている。虚空を囲(かこ)むのを仮に名付けて「身」となしている。この身は「地」「水」「火」「風」の四大からなっている。骨肉の固まっているのは「地大」であり、身に水分が潤っているのは「水大」であり、この身が暖かいのは「火大」であり、動くのは「風大」である。この四つが虚空を囲んでいるのがこの身である。板や柱を集めて家を作って いるようなものである。
死後に体が冷えるのは「火大」が去るから、遺体をそのままにしていると腐るのは「地大」が去るから、切っても血が出ないのは「水大」が去るから、動 かないのは「風大」が去るからである。死ぬときの苦しみは家を槌(つち)にて崩(こわ)すように、木材を一つ一つ取り剥(はが)すようなものであるため、苦しむのである。
断末魔 とはこれをいう。この身の四大が離散して、もとの法界の四大に帰ると覚悟すれば、驚くことはない。驚くことがなければ心が乱れるようなことはない。

三つには、常に御本尊とこの身が一体と思って唱題に励むべきである。己心(こしん)と仏心が一心であると悟れば臨終を妨(さまた)げる悪業もあらず、生死(しょうじ)に留(とど) まるべき妄念(もうねん)もない。

(2)魔の所為に対して、どう用心すればよいか
平生覚悟あるべきである。黄檗(おうばく)禅師の伝心法要(でんしんほうよう)にいわく、臨終の時、もし諸仏が来て種々の善相があっても随喜してはいけない、もし、諸悪が現じて、種々の相があっても怖畏(ふい)の心を生じてはいけない。心を亡じて円ならしむべし。これが臨終の要(かなめ)である。随喜怖畏(ずいきふい)の心を亡じて、ただ妙法を唱えるべきである。

(3)妻子財宝に対してどう用心すればよいか
昔、仏門に入った道人(どうじん)がいた。道人が山中を歩いていると二人の人がいて、一 人は横になっており、一人が畑を耕していた。父子だと思って見ていると、子どもが蛇にかまれて死んでしまった。
しかし、父は嘆(なげ)く色もなく、この子が死んだので、この 子の分の食事をたべるよう道人に言った。道人は父に父子の別れは悲しいはずなのに、なぜ悲しまないのか尋ねた。父いわく、「親子はわずかの契りである。鳥が夜になって林に寄 り合っていても、朝になれば方々に飛び去るようなものである。皆業にまかせて別れるのである。なんの嘆きがあろうか」と。
さて道人がその家に行ってみると、老女がいた。老女は死んだ子の母親であったが、我が子が死んだことを聞いても嘆く色を見せなかった。そこで道人はなぜ嘆かないのか尋ねたところ、老女いわく「母子の契(ちぎ)りは、渡し船に 乗り合うようなものである。岸に着けば散々になるようなものである。各業に任せて行くのである」とのこと。
またこの死んだ子の妻にも嘆きの色はなかった。道人の同じ尋ねに対し、妻は「夫婦の仲 は市場に行き合う人のようなものである。用事がすめば方々へ散るようなものである。」と答えた。
このとき道人は万法の因縁(いんねん)は仮なることだと悟った。 

又、財宝の ことは、在家出家ともに、生きているうちに遺言して書き置くべきである。在家は財宝に執着(しゅうじゃく)し、こうしよう、ああしようと心が乱れる。出家は袈裟(けさ)・衣(こ ろも)・聖教など、だれかれに譲ろうと思って、心が乱れる。よって確かに書き記(しる)すべきである。妄念があってはならない。妻子、珍宝、及び王位は臨終に臨(のぞ)むときは 随(したが)わず、ただ、戒及び施と不放逸(ふほういつ)は後世の伴侶となるのである。臨終の事は常々頼んでおくべきである。
常に臨終のことを心に懸(か)けて置くべきである。在家は妻子または先輩同志によく頼ん で、自分が最後と見ればよく臨終を勧(すす)めてくれるように、出家は弟子や善知識と思う人に、常に頼み約束して置くべきである。
よく、死期が迫(せま)ったとき本当のことをいうと、本人が気力を落とすと思って、死期を 考えさせないようにすることがあるが、いわれのないことである。もし、弱ってきたら、一日二日、一時二時でも早く臨終を迎えることが大事だと思って、臨終を勧める人が大善 知識(ぜんちしき)なのである。

少々経を読む者が祈濤(きとう)だと言って、ちょっとでも長生きをするように、病人に唱題を勧めるのが祈濤になるというのは全くの愚(ぐ)のいたりである。臨終を勧めることが肝心である。致悔集にいわく、臨終は、勧める人が肝要である。
例えば、牧場の馬を取るには、まず乗って取るのである。乗るときは、必ずうつむいて乗らなければ落馬してしまう。ちゃんと うつ向いて乗ろうと思っていても、いざという時、うつ向く事を忘れてしまうが、側(そば)から助言すれば、うつ向いて馬を取ることができる。このように、病気死期に責(せ)めら れて臨終のことを忘れてしまうのを、側から勧めることが肝心なのである。その勧めかたは、唯(ただ)題目を唱えることである。


臨終の作法(要旨)
一、臨終の作法はその場所を清浄にして、御本尊を掛(か)け、香華燈明(こうげとうみょう)を奉(たてまつ)るべきこと。

一、遅からず、早からず、だだ久しくただ長く、鈴の声をたやすことなかれ。気(いき)つきるをもって期(ご)とする事。
(本抄前段に、臨終の時、わたのつんだのを鼻の口にあてて、わたがゆるがないのをみて息が絶えたことを確認することから臨終の事を属之(こう)期という旨の記述があります。)

一、世間の雑談一切語るべからず。

一、病人の心残りになるような事(執心に留める事)を一切語るべからず。

一、看病人の腹立てる事、貧愛(とんあい)することを語るべからず。

一、病人が何か尋ねるようなことがあったら、心に障(さわ)らぬように答えること。

一、病人の近くに、心留まるような資財等置くべからず。

一、ただ、病人に対して、『何事も夢なりと忘れて下さい。南無妙法蓮華経と唱えましょう。』と勧めることが肝心なり。

一、病人の心に違いたる人を、決して近づくべからざること。問い来る人の事を、いちいち病人に知らすべかざる事。

一、病人の近所には、三四人に過ぎるべからず。人多ければ騒がしく、心乱れる事あり。

一、魚鳥五辛を服し、酒に酔ひたる人、いかに親しき人であっても門内に入るべからず。天魔便(たよ)りを得て心乱れ、悪道に引き入る故なり。

一、家の中で魚を焼き、病人に嗅気(きゅうき)およぶべからざる事。

一、臨終の時は喉(のど)乾(かわ)く故に、清紙に水をひたして、時々少々宛(あて)潤(うるお)すべし、誰か水などと呼んで、あらあらしく多くしぼり入るべからざること。

一、ただ今と見る時、御本尊を病人の目の前に向かえ、耳のそばより『臨終ただ今です。大聖人がお迎えに来られました。南無妙法蓮華経と唱えて下さい。』と言って、病人の息に合わせ、速からず遅からず唱題すべし、すでに絶えきっても2時間ばかり耳へ題目を唱え入るべし、死しても底心あり、或いは魂去りやらず、死骸に唱題の声を聞かすれば、悪趣(あくしゅ:悪道)に生まるる事なし。

一、死後の10時間も12時間も動かすべからず、これ古人の深き誡(いまし)めなり。

一、看病人等あらくあたるべからず、或いは、かがめおとす事、返す返すあるべからず。

一、断末魔(だんまつま)という風が身中に出来(しゅったい)する時、骨と肉が離るるなり、死苦病苦の時なり、この時、指にてもあたる事なかれ、指一本にても、大磐石(ばんせき)をなげかけるごとくに覚(おぼ)ゆるなり、人目(ひとめ)にはさほどには見えねども、肉親(にくしん:身体)の痛みいうばかりなし。一生の昵み只今限りなり、善知識も看病人も悲しむ心に住すべし、疎略の心存すべからず、古人の誡(いましめ)なり。惣じて、本尊にあらずば他の物を見すべからず、妙法にあらずば他の音を聞かすべからず。

一、一覧にいわく、阿耆陀(あぎだ)王と云いし人、国王にて善知識にておはしけるが、臨終のとき看病人が扇(おおぎ)を顔に落とせしに、瞋恚(しんに)を生じて、死して大蛇(だいじゃ)と生まれて加旋延(かせんねん)にあいてこの由(よし)を語ると云々。私に云く、此の意に依りて、死期に物をかくるに荒々と掛(か)くべからず。或いはかけずとも云々。

一、御書に、不慮に臨終なんどの近き候はんには、魚鳥なんどを服させたまいても候へ、よみぬくば経をもよみ、及び南無妙法蓮華経とも唱えさせたまい候べしと云々。すでに不慮の時、これを許すを以て知んぬ。兼(かね)て臨終と見ば、之を服すべからず、尚これ臭気(しゅうき)なり、況や直(ただ)ちに服せんや。

一、臨終の相に依って後の生所を知る事。法華経にいわく如是相乃至究境等(にょぜそうないしくきょうとう)云々、大論(だいろん)に云く、臨終に黒色なるは、地獄に堕(お)つ等云々。赤白端正(しゃくびゃくたんせい:白色または桜色の成仏の相で行儀正しい)なるものは、天上(成仏)を得る。一代聖教を定むる名目に云く、黒業(こくごう)は六道(ろくどう)に止り、白業(びゃくごう)は四聖(しせい)となる云々。

一、他宗謗法(ほうぼう)の行者は、たとえ善相ありとも、地獄に堕つべきこと。禅宗の三階(さんがい)は、あらわに声を失いて死す、真言(しんごん)の善無畏(ぜんむい)は皮黒く、浄土の善導(ぜんどう)は、転倒狂乱(てんとうきょうらん)す、他宗の祖師かくの如し。末弟の輩(やから)、その義を知るべし。師はこれ針のごとし、弟子檀那(だんな)は糸の如し。その人命終(みょうじゅう)して阿鼻獄(あびごく)に入るとはこれなり。

一、法華本門の行者は、不善相なれども、成仏疑いなき事安心録(あんじんろく)にいわく、問う、もし臨終の時、或いは重病により正念を失脚し、唱題する事ができず、空(むな)しく死亡したら、悪趣(あくしゅ悪道)に堕(お)ちるか、答う、ひとたび、妙法を信じて謗法せざるものは無量億劫(むりょうおくこう)にも悪趣(悪道)に堕ちず。御書にいわく、一期生(いちごしょう)の中に、但(た)だ一遍の口唱(くしょう)すら、悪道に堕ちず、深く信受すべし云々。

一、臨終に唱題するものは、必ず成仏する事先(ま)ず平正に心に懸(か)け、造次顛沛(ぞうじてんばい:わずかな間、とっさの場合)にも最も唱題すべし。また三宝に祈る事肝要なり。また善知識の教を得て、兼(か)ねて死期を知り、臨終正念証大菩提(りんじゅうしょうねんしょうだいぼだい)と祈るべきなり。多年の行功により、三宝の加護により、必ず臨終正念(臨終にあたり、心が迷わない事、邪念を起こさない事)するなり、臨終正念にして、妙法を口唱(くしょう)すれば、決定(けつじょう)疑い無きなり。

一、臨終の一念は、百年の行力に勝れたり、心力決定して猛利なること、火のごとく毒のごとし。小なりといえども大事をなす。人の陣に入りて、身命を惜しまざるを名づけて健 となすが如しと云々。臨終には信力猛利のゆえに仏力・法力も、ともに弥々(びび少しずつ)顕れ即身成仏するなり。

一、御書にいわく、我が弟子の中に、信心薄く浅き者は、臨終の時、阿鼻(あび)の相を現 ずべし、その時、我を恨(うら)むべからず等云々。

(−以上−)



Since 2014/11/05
Update 2014/11/06

*本ページのコンテンツは、以下の資料を再編集したものです。
 牧石ファミリーネットワーク第6号(1994/10/17)
 牧石支部男子部発行(毎月座談会の週の初日発行)
 臨終正念(りんじゅうしょうねん)
*参考文献
 日寛上人著 臨終用心抄(富士宗学用集第3巻259〜269ページ)

満月城岡山牧石ファミネット > 臨終用心抄(日寛上人著)