日蓮大聖人御書全集 創価学会版
(ポケット版御書)

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題目弥陀名号勝劣事

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此等は罪なれども仏法を失ふ縁とはならず懺悔をなさざれば三悪道にいたる、又魚鳥鹿等を殺して売買をなして善根を修する事もあり、此等は世間には悪と思はれて遠く善となる事もあり、仏教をもつて仏教を失ふこそ失ふ人も失ふとも思はず只善を修すると打ち思うて又そばの人も善と打ち思うてある程に思はざる外に悪道に堕つる事の出来候なり、当世には念仏者なんどの日蓮に責め落されて我が身は謗法の者なりけりと思う者も是あり、聖道の人人の御中にこそ実の謗法の人人は侍れ彼の人人の仰せらるる事は法華経を毀る念仏者も不思議なり念仏者を毀る日蓮も奇怪なり、念仏と法華とは一体の物なり、されば法華経を読むこそ念仏を申すよ念仏申すこそ法華経を読むにては侍れと思う事に候なりとかくの如く仰せらるる人人聖道の中にあまたをはしますと聞ゆ、随つて檀那も此の義を存じて日蓮並に念仏者をおこがましげに思へるなり先日蓮が是れ程の事をしらぬと思へるははかなし。

 仏法漢土に渡り初めし事は後漢の永平なり渡りとどまる事は唐の玄宗皇帝開元十八年なり、渡れるところの経律論五千四十八巻訳者一百七十六人其の経経の中に南無阿弥陀仏は即南無妙法蓮華経なりと申す経は一巻一品もおはしまさざる事なり、其の上阿弥陀仏の名を仏説き出し給う事は始め華厳より終り般若経に至るまで四十二年が間に所所に説かれたり、但し阿含経をば除く一代聴聞の者是を知れり、妙法蓮華経と申す事は仏の御年七十二成道より已来四十二年と申せしに霊山にましまして無量義処三昧に入り給いし時文殊弥勒の問答に過去の日月燈明仏の例を引いて我燈明仏を見る乃至法華経を説かんと欲すと先例を引きたりし時こそ南閻浮提の衆生は法華経の御名をば聞き初めたりしか、三の巻の心ならば阿弥陀仏等の十六の仏は昔大通智勝仏の御時十六の王子として法華経を習つて後に正覚をならせ給へりと見えたり、弥陀仏等も凡夫にてをはしませし時は妙法蓮華経の五字を習つてこそ仏にはならせ給ひて侍れ、全く南無阿弥陀仏と申して正覚をならせ給いたりとは見えず、妙法蓮華経は能開なり南無阿弥陀仏は所開なり、能開所開を弁へずして南無阿弥陀仏こそ南無妙法蓮華経よ


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