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P0392 次>外道は常[心]楽[受]我[法]浄[身]仏は苦不浄無常無我と説く総想念処とは先の苦不浄無常無我を調練して観ずるなり・法は智慧の火煩悩の薪を蒸せば煙の立つなり故に・法と云う、頂法は山の頂に登つて四方を見るに雲無きが如し、世間出世間の因果の道理を委く知つて闇き事無きに譬えたるなり、始め五停心より此の頂法に至るまで退位と申して悪縁に値へば悪道に堕つ而れども此の頂法の善根は失せずと習うなり、忍法は此の位に入る人は永く悪道に堕ちず、世第一法は此の位に至る賢人なり但今聖人と成る可きなり。
一に見道 二 随信行 鈍根
随法行 利根
二に修道 三 信解 鈍根
正と言う事なり 阿羅漢 見得 利根
七聖三 身証 利鈍に亘る
三に無学道 二 慧解脱 鈍根
倶解脱 利根
見思の煩悩を断ずる者を聖と云う、此の聖人に三道あり、見道とは見思の内の見惑を断じ尽くす、此の見惑を尽くす人をば初果の聖者と申す、此の人は欲界の人天には生るれども永く地餓畜修の四悪趣には堕ちず、天台云く「見惑を破るが故に四悪趣を離る」文、此の人は未だ思惑を断ぜず貪瞋癡有り、身に貪欲ある故に妻を帯す、而れども他人の妻を犯さず、瞋恚あれども物を殺さず、鋤を以て地をすけば虫自然に四寸去る、愚癡なる故に我が身初果の聖者と知らず、婆娑論に云く「初果の聖者は妻を八十一度一夜に犯すと」[取意]天台の解釈に云く「初果地を耕すに虫四寸を離るるは道共の力なり」と、第四果の聖者阿羅漢を無学と云ひ亦は不生と云う、
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