日蓮大聖人御書全集 創価学会版
(ポケット版御書)

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十法界事

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 故に涌出品に至つて爾前迹門の断無明の菩薩を「五十小劫半日の如しと謂えり」と説く是れ則ち寿量品の久遠円仏の非長非短不二の義に迷うが故なり、爾前迹門の断惑とは外道の有漏断の退すれば起るが如し未だ久遠を知らざるを以て惑者の本と為すなり、故に四十一品断の弥勒本門立行の発起影響当機結縁の地涌千界の衆を知らず、既に一分の無始の無明を断じて十界の一分の無始の法性を得れば何ぞ等覚の菩薩を知らざらん、設い等覚の菩薩を知らざるも争でか当機結縁の衆を知らざらん乃ち不識一人の文は最も未断三惑の故か、是を以て本門に至つては則ち爾前迹門に於て随他意の釈を加え又天人修羅に摂し「貪著五欲妄見網中為凡夫顛倒」と説き、釈の文には「我坐道場不得一法」と云う蔵通両仏の見思断も別円二仏の無明断も並に皆見思無明を断ぜず故に随他意と云う、所化の衆生三惑を断ずと謂えるは是れ実の断に非ず答の文に開善の無声聞の義に同ずとは汝も亦光宅の有声聞の義に同ずるか、天台は有無共に破し給うなり、開善は爾前に於て無声聞を判じ光宅は法華に於て有声聞を判ず故に有無共に難有り、天台は「爾前には則ち有り今経には則ち無し所化の執情には則ち有り長者の見には則ち無し」此くの如きの破文皆是れ爾前迹門相対の釈にて有無共に今の難には非ざるなり、「但し七方便並に究竟の滅に非ず又但し心を観ずと云わば則ち理に称わず」との釈は円益に対し当分の益を下して「並非究竟滅即不称理」と云うなりと云うは金・論には「偏に清浄の真如を指す尚小の真を失えり仏性安んぞ在らん」と云う釈をば云何が会す可き、但し此の尚失小真の釈は常には出だす可からず最も秘蔵す可し、但し「妙法蓮華経皆是真実」の文を以て迹門に於て爾前の得道を許すが故に爾前得道の義有りと云うは此れは是れ迹門を爾前に対して真実と説くか、而も未だ久遠実成を顕さず是れ則ち彼の未顕真実の分域なり所以に無量義経に大荘厳等の菩薩の四十余年の得益を挙ぐるを仏の答えたもうに未顕真実の言を以てす、又涌出品の中に弥勒疑つて云く


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