日蓮大聖人御書
ネット御書
(諌暁八幡抄)
<1.前 P0582 2.次>

平家ををごらせし失に伊勢太神宮八幡等に神うちに打ち失われて其の後平家ほどなくほろび候いぬ此れも又かくのごとし。
 法華経の第四に云く「仏滅度の後能く其の義を解せんは是れ諸の天人世間の眼なり」等云云、 日蓮が法華経の肝心たる題目を日本国に弘通し候は諸天世間の眼にあらずや、眼には五あり所謂肉眼天眼慧眼法眼仏眼なり、此の五眼は法華経より出生せさせ給う故に普賢経に云く「此の方等経は是れ諸仏の眼なり諸仏是れに因て五眼を具する事を得給う」等云云、 此の方等経と申すは法華経を申すなり、又此の経に云く「人天の福田応供の中の最なり」等云云、此等の経文のごとくば妙法蓮華経は人天の眼二乗菩薩の眼諸仏の御眼なり、而るに法華経の行者を怨む人は人天の眼をくじる者なり、其の人を罰せざる守護神は一切の人天の眼をくじる者を結構し給う神なり、而るに弘法慈覚智証等は正しく書を作りて法華経を無明の辺域にして明の分位に非ず後に望れば戯論と作る力者に及ばず履者とりにたらずとかきつけて四百余年、 日本国の上一人より下万民にいたるまで法華経をあなづらせ一切衆生の眼をくじる者を守護し給うはあに八幡大菩薩の結構にあらずや、去ぬる弘長と又去ぬる文永八年九月の十二日に日蓮一分の失なくして南無妙法蓮華経と申す大科に国主のはからいとして八幡大菩薩の御前にひきはらせて一国の謗法の者どもにわらわせ給いしはあに八幡大菩薩の大科にあらずや、其のいましめとをぼしきはただどしうちばかりなり、日本国の賢王たりし上第一第二の御神なれば八幡に勝れたる神はよもをはせじ、又偏頗はよも有らじとはをもへども一切経並に法華経のをきてのごときんばこの神は大科の神なり、日本六十六箇国二つの島一万一千三十七の寺寺の仏は皆或は画像或は木像或は真言已前の寺もあり或は已後の寺もあり、此等の仏は皆法華経より出生せり、法華経をもつて眼とすべし、所謂「此の方等経は是れ諸仏の眼なり」等云云、妙楽云く「然も此の経は常住仏性を以て咽喉と為し一乗の妙行を以て眼目と為し


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