日蓮大聖人御書
ネット御書
(種種御振舞御書)
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故に弘決の八に云く「若し衆生生死を出でず仏乗を慕わずと知れば魔是の人に於て猶親の想を生す」等云云、釈の心は人善根を修すれども念仏真言禅律等の行をなして法華経を行ぜざれば魔王親のおもひをなして人間につきて其の人をもてなし供養す世間の人に実の僧と思はせんが為なり、例せば国主のたとむ僧をば諸人供養するが如し、されば国主等のかたきにするは既に正法を行ずるにてあるなり、釈迦如来の御ためには提婆達多こそ第一の善知識なれ、今の世間を見るに人をよくなすものはかたうどよりも強敵が人をばよくなしけるなり、眼前に見えたり此の鎌倉の御一門の御繁昌は義盛と隠岐法皇ましまさずんば争か日本の主となり給うべき、されば此の人人は此の御一門の御ためには第一のかたうどなり、日蓮が仏にならん第一のかたうどは景信法師には良観道隆道阿弥陀仏と平左衛門尉守殿ましまさずんば争か法華経の行者とはなるべきと悦ぶ。
 かくてすごす程に庭には雪つもりて人もかよはず堂にはあらき風より外はをとづるるものなし、眼には止観法華をさらし口には南無妙法蓮華経と唱へ夜は月星に向ひ奉りて諸宗の違目と法華経の深義を談ずる程に年もかへりぬ、いづくも人の心のはかなさは佐渡の国の持斎念仏者の唯阿弥陀仏生喩房印性房慈道房等の数百人より合いて僉議すと承る、聞ふる阿弥陀仏の大怨敵一切衆生の悪知識の日蓮房此の国にながされたりなにとなくとも此の国へ流されたる人の始終いけらるる事なし、設ひいけらるるともかへる事なし、又打ちころしたりとも御とがめなし、塚原と云う所に只一人ありいかにがうなりとも力つよくとも人なき処なれば集りていころせかしと云うものもありけり、又なにとなくとも頚を切らるべかりけるが守殿の御台所の御懐妊なればしばらくきられず終には一定ときく、又云く六郎左衛門尉殿に申してきらずんばはからうべしと云う、多くの義の中にこれについて守護所に数百人集りぬ、


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