日蓮大聖人御書
ネット御書
(種種御振舞御書)
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三月十三日に島を立ちて同三月二十六日に鎌倉へ打ち入りぬ。
 同四月八日平左衛門尉に見参しぬ、さきにはにるべくもなく威儀を和らげてただしくする上或る入道は念仏をとふ或る俗は真言をとふ或る人は禅をとふ平左衛門尉は爾前得道の有無をとふ一一に経文を引いて申しぬ、平の左衛門尉は上の御使の様にて大蒙古国はいつか渡り候べきと申す、日蓮答えて云く今年は一定なりそれにとつては日蓮已前より勘へ申すをば御用ひなし、譬えば病の起りを知らざる人の病を治せば弥よ病は倍増すべし、真言師だにも調伏するならば弥よ此の国軍にまくべし穴賢穴賢、真言師総じて当世の法師等をもつて御祈り有るべからず各各は仏法をしらせ給うておわさばこそ申すともしらせ給はめ、又何なる不思議にやあるらん他事にはことにして日蓮が申す事は御用いなし、後に思い合せさせ奉らんが為に申す隠岐法皇は天子なり権大夫殿は民ぞかし、子の親をあだまんをば天照太神うけ給いなんや、所従が主君を敵とせんをば正八幡は御用いあるべしや、いかなりければ公家はまけ給いけるぞ、此れは偏に只事にはあらず弘法大師の邪義慈覚大師智証大師の僻見をまことと思いて叡山東寺園城寺の人人の鎌倉をあだみ給いしかば還著於本人とて其の失還つて公家はまけ給いぬ、武家は其の事知らずして調伏も行はざればかちぬ今又かくの如くなるべし、ゑぞは死生不知のもの安藤五郎は因果の道理を弁えて堂塔多く造りし善人なり、いかにとして頚をばゑぞにとられぬるぞ、是をもつて思うに此の御房たちだに御祈あらば入道殿事にあひ給いぬと覚え候、あなかしこあなかしこさいはざりけるとおほせ候なとしたたかに申し付け候いぬ。
 さてかへりききしかば同四月十日より阿弥陀堂法印に仰付られて雨の御いのりあり、此の法印は東寺第一の智人をむろ等の御師弘法大師慈覚大師智証大師の真言の秘法を鏡にかけ天台華厳等の諸宗をみな胸にうかべたり、それに随いて十日よりの祈雨に十一日に大雨下りて風ふかず雨しづかにて一日一夜ふりしかば守殿御感のあまりに


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