日蓮大聖人御書
ネット御書
(妙密上人御消息)
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麻の中の蓬墨うてる木の自体は正直ならざれども自然に直ぐなるが如し、経のままに唱うればまがれる心なし、当に知るべし仏の御心の我等が身に入らせ給はずば唱へがたきか、又それ他人の弘めさせ給ふ仏法は皆師より習ひ伝へ給へり、例せば鎌倉の御家人等の御知行所領の地頭或は一町二町なれども皆故大将家の御恩なり、何に況や百町千町一国二国を知行する人人をや、賢人と申すはよき師より伝へたる人聖人と申すは師無くして我と覚れる人なり、仏滅後月氏漢土日本国に二人の聖人あり所謂天台伝教の二人なり、此の二人をば聖人とも云うべし又賢人とも云うべし、天台大師は南岳に伝えたり是は賢人なり、道場にして自解仏乗し給いぬ又聖人なり、伝教大師は道邃行満に止観と円頓の大戒を伝へたりこれは賢人なり、入唐已前に日本国にして真言止観の二宗を師なくしてさとり極め、天台宗の智慧を以て六宗七宗に勝れたりと心得給いしは是れ聖人なり、然れば外典に云く「生れながらにして之を知る者は上なり[上とは聖人の名なり]学んで之を知る者は次なり[次とは賢人の名なり]」内典に云く「我が行師の保無し」等云云、夫れ教主釈尊は娑婆世界第一の聖人なり、天台伝教の二人は聖賢に通ずべし、馬鳴竜樹無著天親等老子孔子等は或は小乗或は権大乗或は外典の聖賢なり、法華経の聖賢には非ず。
 今日蓮は聖にも賢にも非ず持戒にも無戒にも有智にも無智も当らず、然れども法華経の題目の流布すべき後五百歳二千二百二十余年の時に生れて近くは日本国遠くは月氏漢土の諸宗の人人唱へ始めざる先に南無妙法蓮華経と高声によばはりて二十余年をふる間或は罵られ打たれ或は疵をかうほり或は流罪に二度死罪に一度定められぬ、其の外の大難数をしらず譬へば大湯に大豆を漬し小水に大魚の有るが如し、経に云く「而も此の経は如来の現在にすら猶怨嫉多し況や滅度の後をや」又云く「一切世間怨多くして信じ難し」又云く「諸の無智の人有りて悪口罵詈す」或は云く「刀杖瓦石を加え或は数数擯出せらる」等云云、此等の経文は日蓮日本国に生ぜずんば但仏の御言のみ有りて其の義空しかるべし、譬へば花さき菓みならず雷なりて雨ふらざらんが如し、


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