日蓮大聖人御書
ネット御書
(白米一俵御書)
<1.前 P1596 2.次>

*白米一俵御書 

 白米一俵けいもひとたわらこふのりひとかご御つかいをもつてわざわざをくられて候。
 人にも二つの財あり一には衣二には食なり経に云く「有情は食に依つて住す」と云云文の心は生ある者は衣と食によつて世にすむと申す心なり、魚は水にすむ水を宝とす木は地の上にをいて候地を財とす、人は食によつて生あり食を財とす、いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命ととかれて三千大千世界にみてて候財もいのちにはかへぬ事に候なり、さればいのちはともしびのごとし食はあぶらのごとし、あぶらつくればともしびきへぬ食なければいのちたへぬ、一切のかみ仏をうやまいたてまつる始の句には南無と申す文字ををき候なり、南無と申すはいかなる事ぞと申すに南無と申すは天竺のことばにて候、漢土日本には帰命と申す帰命と申すは我が命を仏に奉ると申す事なり、我が身には分に随いて妻子眷属所領金銀等をもてる人人もあり又財なき人人もあり、財あるも財なきも命と申す財にすぎて候財は候はず、さればいにしへの聖人賢人と申すは命を仏にまいらせて仏にはなり候なり。
 いわゆる雪山童子と申せし人は身を鬼にまかせて八字をならへり、薬王菩薩と申せし人は臂をやいて法華経に奉る、我が朝にも聖徳太子と申せし人は手のかわをはいで法華経をかき奉り、天智天皇と申せし国王は無名指と申すゆびをたいて釈迦仏に奉る、比れ等は賢人聖人の事なれば我等は叶いがたき事にて候。
 ただし仏になり候事は凡夫は志ざしと申す文字を心へて仏になり候なり、志ざしと申すはなに事ぞと委細にかんがへて候へば観心の法門なり、観心の法門と申すはなに事ぞとたづね候へばただ一つきて候衣を法華経にまいらせ候が身のかわをわぐにて候ぞ、


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