日蓮大聖人御書
ネット御書
(白米一俵御書)
<1.前 P1597 2.次>

うへたるよにこれはなしてはけうの命をつぐべき物もなきにただひとつ候ごれうを仏にまいらせ候が身命を仏にまいらせ候にて候ぞ、これは薬王のひぢをやき雪山童子の身を鬼にたびて候にもあいをとらぬ功徳にて候へば聖人の御ためには事供やう凡夫のためには理くやう止観の第七の観心の檀ばら蜜と申す法門なり、まことのみちは世間の事法にて候、金光明経には「若し深く世法を識らば即ち是れ仏法なり」ととかれ涅槃経には「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」と仰せられて候を妙楽大師は法華経の第六の巻の「一切世間の治生産業は皆実相と相い違背せず」との経文に引き合せて心をあらわされて候には彼れ彼れの二経は深心の経経なれども彼の経経はいまだ心あさくして法華経に及ばざれば世間の法を仏法に依せてしらせて候、法華経はしからずやがて世間の法が仏法の全体と釈せられて候。
 爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし草木は万法のごとしと申す、法華経はしからず心すなはち大地大地即草木なり、爾前の経経の心は心のすむは月のごとし心のきよきは花のごとし、法華経はしからず月こそ心よ花こそ心よと申す法門なり。
 此れをもつてしろしめせ、白米は白米にはあらずすなはち命なり。
 美食ををさめぬ人なれば力をよばず山林にまじわり候いぬ、されども凡夫なればかんも忍びがたく熱をもふせぎがたし、食ともし表○目が万里の一食忍びがたく思子孔が十旬九飯堪ゆべきにあらず、読経の音も絶えぬべし観心の心をろそかなり。
 しかるにたまたまの御とぶらいただ事にはあらず、教主釈尊の御すすめか将又過去宿習の御催か、方方紙上に尽し難し、恐恐謹言。


<1.前 P1597 2.次>