日蓮大聖人御書
ネット御書
(四条金吾殿御返事)
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又すぎにし壽永二年十一月に義仲にからめとられし上頚うちきられぬ是はながされ頚きらるるをとがとは申さず賢人聖人もかかる事候、但し源氏の頼朝と平家の清盛との合戦の起りし時清盛が一類二十余人起請をかき連判をして願を立てて平家の氏寺と叡山をたのむべし三千人は父母のごとし山のなげきは我等がなげき山の悦びは我等がよろこびと申して、近江の国二十四郡を一向によせて候しかば、大衆と座主と一同に内には真言の大法をつくし外には悪僧どもをもつて源氏をいさせしかども義仲が郎等ひぐちと申せしをのこ義仲とただ五六人計り叡山中堂にはせのぼり調伏の壇の上にありしを引き出してなわをつけ西ざかを大石をまろばすやうに引き下して頚をうち切りたりき、かかる事あれども日本の人人真言をうとむ事なし又たづぬる事もなし去ぬる承久三年辛巳五六七の三箇月が間京夷の合戦ありき、時に日本国第一の秘法どもをつくして叡山東寺七大寺園城寺等天照太神正八幡山王等に一一に御いのりありき、其の中に日本第一の僧四十一人なり所謂前の座主慈円大僧正東寺御室三井寺の常住院の僧正等は度度義時を調伏ありし上、御室は紫宸殿にして六月八日より御調伏ありしに、七日と申せしに同じく十四日にいくさにまけ勢多迦が頚きられ御室をもひ死に死しぬ、かかる事候へども真言はいかなるとがともあやしむる人候はず、をよそ真言の大法をつくす事明雲第一度慈円第二度に日本国の王法ほろび候い畢んぬ、今度第三度になり候、当時の蒙古調伏此れなり、かかる事も候ぞ此れは秘事なり人にいはずして心に存知せさせ給へ。
 されば此の事御訴訟なくて又うらむる事なく御内をばいでず我かまくらにうちいてさきざきよりも出仕とをきやうにてときどきさしいでておはするならば叶う事も候なん、あながちにわるびれてみへさせ給うべからず、よくと名聞瞋との。


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