日蓮大聖人御書全集 創価学会版
(ポケット版御書)

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安国論御勘由来

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古最明寺入道殿に奏進申し了んぬ此れ偏に国土の恩を報ぜんが為なり、其勘文の意は日本国天神七代地神五代百王百代人王第卅代欽明天皇の御宇に始めて百済国より仏法此の国に渡り桓武天皇の御宇に至つて其の中間五十余代二百六十余年なり、其の間一切経並びに六宗之れ有りと雖も天台真言の二宗未だ之れ有らず、桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄と云う小僧有り[後に伝教大師と号す]、已前に渡る所の六宗並に禅宗之を極むと雖も未だ我が意に叶わず、聖武天皇の御宇に大唐の鑒真和尚渡す所の天台の章疏四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し粗仏法の玄旨を覚り了んぬ、最澄天長地久の為に延暦四年叡山を建立す桓武皇帝之を崇め天子本命の道場と号し六宗の御帰依を捨て一向に天台円宗に帰伏し給う。

 同延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ、同延暦廿一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学勤操長耀等の十四人を召し合せ勝負を決談す、六宗の明匠一問答にも及ばず口を閉ずること鼻の如し華厳宗の五教法相宗の三時三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ但自宗を破らるるのみに非ず皆謗法の者為ることを知る、同じき廿九日皇帝勅宣を下して之を詰る、十四人謝表を作つて皇帝に捧げ奉る、其の後代代の皇帝叡山の御帰依は孝子の父母に仕うるに超え黎民の王威を恐るるに勝れり、或御時は宣明を捧げ或御時は非を以て理に処す等云云、殊に清和天皇は叡山の恵亮和尚の法威に依つて位に即き帝王の外祖父九条右丞相は誓状を叡山に捧げ、源の右将軍は清和の末葉なり鎌倉の御成敗是非を論ぜず叡山に違背す天命恐れ有る者か。

 然るに後鳥羽院の御宇建仁年中に法然大日とて二人の増上慢の者有り悪鬼其の身に入つて国中の上下を誑惑し代を挙げて念仏者と成り人毎に禅宗に趣く、存の外に山門の御帰依浅薄なり国中の法華真言の学者棄て置かれ了んぬ、故に叡山守護の天照太神正八幡宮山王七社国中守護の諸大善神法味を・わずして威光を失い国土を捨て去り了んぬ、悪鬼便りを得て災難を致し結句他国より此の国を破る可き先相勘うる所なり、又其の後文永元年[甲子]七月五日


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