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P1595 次>又宣旨も両方を尋ね極めて分明の証文をかきのせていましめあるべかりけるか。
已今当の経文は仏すらやぶりがたし何に況や論師人師国王の威徳をもつてやぶるべしや、已今当の経文をば梵王帝釈日月四天等聴聞して各各の宮殿にかきとどめてをはするなり、まことに已今当の経文を知らぬ人の有る時は先の人人の邪義はひろまりて失なきやうにてはありとも此の経文をつよく立て退転せざるこわ物出来しなば大事出来すべし、いやしみて或はのり或は打ち或はながし或は命をたたんほどに梵王帝釈日月四天をこりあひて此の行者のかたうどをせんほどに存外に天のせめ来りて民もほろび国もやぶれんか、法華経の行者はいやしけれども守護する天こわし、例せば修羅が日月をのめば頭七分にわる犬は師子をほゆればはらわたくさる、今予みるに日本国かくのごとし、又此れを供養せん人人は法華経供養の功徳あるべし、伝教大師釈して云く「讚めん者は福を安明に積み謗せん者は罪を無間に開かん」等云云。
ひへのはんを辟支仏に供養せし人は宝明如来となりつちのもちゐを仏に供養せしかば閻浮提の王となれり、設いこうをいたせどもまことならぬ事を供養すれば大悪とはなれども善とならず、設い心をろかにすこしきの物なれどもまことの人に供養すればこう大なり、何に況や心ざしありて、まことの法を供養せん人人をや。
其の上当世は世みだれて民の力よわし、いとまなき時なれども心ざしのゆくところ山中の法華経へまうそうかたかんなををくらせ給う福田によきたねを下させ給うか、なみだもとどまらず。
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