日蓮大聖人御書全集 創価学会版
(ポケット版御書)

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十章抄

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「諸文を散引して一代の文体を該れども正意は唯二経に帰す」と申すこれなり。

 止観に十章あり大意釈名体相摂法偏円方便正観果報起教旨帰なり、前六重は修多羅に依ると申して大意より方便までの六重は先四巻に限る、これは妙解迹門の心をのべたり、今妙解に依つて以て正行を立つと申すは第七の正観十境十乗の観法本門の心なり、一念三千此れよりはじまる、一念三千と申す事は迹門にすらなを許されず何に況や爾前に分たへたる事なり、一念三千の出処は略開三の十如実相なれども義分は本門に限る爾前は迹門の依義判文迹門は本門の依義判文なり、但真実の依文判義は本門に限るべし、されば円の行まちまちなり沙をかずへ大海をみるなを円の行なり、何に況や爾前の経をよみ弥陀等の諸仏の名号を唱うるをや。

 但これらは時時の行なるべし、真実に円の行に順じて常に口ずさみにすべき事は南無妙法蓮華経なり、心に存すべき事は一念三千の観法なり、これは智者の行解なり日本国の在家の者には但一向に南無妙法蓮華経ととなへさすべし、名は必ず体にいたる徳あり、法華経に十七種の名ありこれ通名なり別名は三世の諸仏皆南無妙法蓮華経とつけさせ給いしなり、阿弥陀釈迦等の諸仏も因位の時は必ず止観なりき口ずさみは必ず南無妙法蓮華経なり、此等をしらざる天台真言等の念仏者口ずさみには一向に南無阿弥陀仏と申すあひだ在家の者は一向に念うやう天台真言等は念仏にてありけり、又善導法然が一門はすなわち天台真言の人人も実に自宗が叶いがたければ念仏を申すなり、わづらわしくかれを学せんよりは法華経をよまんよりは一向に念仏を申して浄土にして法華経をもさとるべしと申す、此の義日本国に充満せし故に天台真言の学者在家の人人にすてられて六十余州の山寺はうせはてぬるなり。

 九十六種の外道は仏慧比丘の威儀よりをこり、日本国の謗法は爾前の円と法華の円と一つという義の盛なりしよりこれはじまれり、あわれなるかなや、外道は常楽我浄と立てしかば仏世にいでまさせ給いては苦空無常無我ととかせ給いき、


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