<前
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かくて月ひすぐれことゆへなく生れにきをのこごにてありけり、七歳のとしやまでらにのぼせてありければともだちなりけるちごどもをやなしとわらひけり、いへにかへりてははにちちをたづねけり、ははのぶるかたなくしてなくより外のことなし、此のちご申す天なくしては雨ふらず地なくしてはくさをいず、たとい母ありともちちなくばひととなるべからず、いかに父のありどころをばかくし給うぞとせめしかば母せめられて云うわちごをさなければ申さぬなりありやうはかうなり、此のちごなくなく申すやうさてちちのかたみはなきかと申せしかば、これありとてををはしのせんぞの日記ならびにはらの内なる子にゆづれる自筆の状なり、いよいよをやこひしくてなくより外の事なし、さていかがせんといゐしかばこれより郎従あまたともせしかども御かんきをかほりければみなちりうせぬ、そののちはいきてや又しにてやをとづるる人なしとかたりければふしころびなきていさむるをももちゐざりけり。
ははいわくをのれをやまでらにのぼする事はをやのけうやうのためなり、仏に花をもまいらせよ経をも一巻よみて孝養とすべしと申せしかばいそぎ寺にのぼりていえへかへる心なし、昼夜に法華経をよみしかばよみわたりけるのみならずそらにをぼへてありけり、さて十二のとし出家をせずしてかみをつつみとかくしてつくしをにげいでてかまくらと申すところへたづねいりぬ。
八幡の御前にまいりてふしをがみ申しけるは八幡大菩薩は日本第十六の王本地は霊山浄土に法華経をとかせ給いし教主釈尊なり、衆生のねがいをみて給わんがために神とあらわれさせ給う、今わがねがいみてさせ給え、
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